2015年4月26日日曜日

SORATO

ある友達と僕の相違点と共通点を最近しばしば考えている。
自分と他人を比べて落胆するという、実に残念な時間だ。けどその先に何らかの希望を見つけたくもある。たくさんの人に見られているブログでもないし、読み返したいときに便利だからメモ程度に書いておく。


彼は根っこが陰(イン)であり表面的にも陰を表現する。もしくは陰の中にある一筋の陽。その姿は素直で真摯に映る。

僕も根っこが陰だが、表面的には理想の世界に浮かんでいる陽を表現する。自分の中の陰に否定的な立場を取る。いささか、くさいものはフタ的だ。その分、鋭い人にはうさんくさく映っているかもしれない。



彼は駄目な自分を表に出すことにほとんどためらいが無く、表現のネタにしてしまえる。自分と向き合えば向き合うほどネタが溢れてくる。

僕は駄目な自分を恥じることが多く、表現のネタにはしない。できない。理想の世界ばかりを追いかけていてもすぐにネタは切れる。既に息切れ状態だ。


彼は作ることが好きだが、それを人前でいかに魅せるかにはあまり興味がない。

僕は作ることがあまり好きではなく、出来上がったものを人前でどう魅せるかに興味がある。


その違いが何を生むのか。








結果、少数ながらも彼の表現を根強く支持する人が生まれている。それはとても近くで寄り添っているように感じる。僕はそんな彼を尊敬せずにはおられない。

僕には、それが無いのじゃないかと思う。一見さんで気に入ってくれた人は日本各地にたくさんいるけど、太く継続している感覚が無い。
もしかしたら僕は少なからず今まで支持してきれくれた人をどこかで裏切ることを繰り返してきたんじゃないだろうか。


やりたいことが変わったから、やることを変える。



それは僕の勝手だが、ころころと様相を変えていると、人に魅力を感じてもらい感じ続けてもらうことはどんどん難しくなる。僕にブレない芯があるのかということさえ疑わしく、きっと周りの人も僕の何を評価したらいいのか分からないのだ。僕の変化に僕さえも着いていけてないのかもしれない。


それに気づくのが本当に遅かった。何年もかかった。おかげでバンドのファンで居てくれたあの人やあの子はもう僕の近くには居ない。一人も居ないと言っていいくらいに居ない。
大阪でライブをしたって自発的にライブ会場に来てくれる人もほとんど居ない。どうしたものか。


このブログだってそうだ。やりたての頃はツアー中のあれこれを面白おかしく書いたら楽しんでもらえるんじゃないかと思って書いてたけど、最近はもう書いてない。

あの頃はブログがおもしろいと声をかけてくれる人がわずかにいたけど、今こんなツイッターにもフェイスブックにも書きたくないような独り言をふつふつと書いているようなパッとしないブログ、楽しんでくれてる人なんているんだろうか。どうしようもないね。ちゃんちゃん。