いつかみたあの写真。
たまたま入った喫茶店のテーブルの横の壁に貼ってあった一枚の写真。
ずっと頭に焼き付いて離れなかった風景。
山の中にぽつんとある。湖と呼ぶにはいささか小さすぎる湖沼の写真。
中学校の修学旅行で始めてみた沖縄の海の青さの衝撃に似た、センセーショナルな色彩。
透き通った水面の下には倒れた木々がそこまで伸びる様子が移りこんでいた。
写真の右下には『青森 十二湖』
いつか必ず、この目で見なければいけない。自分の目で見なければいけない。
そんな気がしていたのだ。
白神山地。
青森と秋田をまたぐ世界遺産。
青森駅から鈍行列車を乗り継いで、秋田県との県境、車窓からは日本海。そんな場所で電車を降りたのは夕方17時半。
十二湖に向かうバスは既に最終便が行ったあとだった。
日は西へ西へ。山の麓の駅にも夜が近づいていた。
周りには宿もなく、店も閉まっている。
このまま駅舎で翌日、朝一のバスを待つのか。
時間が経つに連れ、ますます暗くなっていくであろう山道を歩き、目的地に近づいて夜を明かすのか。
僕に与えられた選択肢はその2つだった。
後者を選んだ。
駅舎はベンチもあってトイレも整っていたので、休めないこともないが、ここで半日以上じっとしているのは、どうにも納得が行かなかった。
暗い車道を、持ってきていた小さいペンライトで照らしながら歩き始めた。
ときどきすれ違ったり追い抜いていく地元の住人であろう自動車は、フロントライトで僕を照らすと、
「おいおい、なんでまたこんな時間にこんな場所を一人で歩いているんだ?」
と言わんばかりに訝しげに、申し訳なさそうなエンジン音を静かな山道に響かせて、しだいに僕から離れて行った。
そうすると聞こえるのは遠くで流れる小川のせせらぎと、大人しく木を揺らす風の音。
そして僕の足音だけだった。
真っ暗な山道は、ゆっくりと、確実に僕を孤独に追い込んだ。
ときどき車道の脇から広がる山の斜面の木か草むらが「ガサガサ!」と音を立てた。
きっと鼠か猫か、あるいは猿か何かの小動物がいるか、あるいは突発的な風の仕業だろうと思ったが、それでも充分に警戒していた。
熊が出る。北の山には特に、熊が出るというのはよく聞く話だ。
やがてこれ以上進んでも仕方がない、というくらいのところにちょうど良いベンチを設えた茶屋があった。
今夜は寝袋を敷いて、ここで夜を明かそう。
僕はそう決めた。
そして、寝袋を広げるためにベンチの周辺の安全を確かめていると、茶屋の外壁に貼ってある一枚の張り紙が目に入った。
『クマ出没注意』
(つづく)