2013年11月1日(金)
東京でバスを乗り換え、明日のライブに向けて、福島県のいわき市に向かっている。
東京でバスを乗り換え、明日のライブに向けて、福島県のいわき市に向かっている。
大阪よりも東京よりも恐らくずっと放射能汚染濃度が高い地域に。
震災後、さまざまな事情や想いの中で、けれどもそこで変わらず生活し続ける人たちがいる。
日本国本州という同じ島に住む、その人たちに会わないわけには行かない。そう思っていた。
例えばいまこの地を訪れた僕の体にいったいどんな影響を及ぼすのだろう?
大阪でじっとしているよりは確実に多く外部被曝をするはずだ。
今は何も起こらないだろうけど、堆積された何かがいつか何かの形になって現れるかもしれない。
けれども行かないわけには行かない。
聞かないわけには行かない話さないわけには行かない。
その思いが強かった。
前に福島県を訪れたのは2011年の11月。
大学時代の先輩が夏に帰省してきた時に大阪で『メシでも行かないか』と誘われて、久しぶりに会った。
そこで直接的に被災し、被曝した話を聞いた。
たくさんの写真を見せてもらった。
瓦礫の山。ぼろぼろの基礎工事の跡だけ残った住めなくなった家。鉄筋の骨組みだけ残った団地。
積み上げられたタイヤの山。自動車の山。
『この現実が、関西にはあまりにも届いていないことが悔しい。』
先輩はそう言っていた。
『お前には見てほしいし、知ってほしい。だから来てくれ。』
そう言われ、僕は都合をつけて必ず行くと伝えた。
会ったのは夏だったが、ようやく都合が付けられたのがその年の11月だった。
僕はバスに乗り福島駅まで行った。そこで先輩の車に乗り、宮城県の南三陸町に向かったのだ。
現地に到着するまでの景色は本当に写真で見たものと同じだった。
しかしその生々しさは想像を越え、突き刺さって来た。
ここでいったい何人の人が津波にのまれて亡くなったのだろう。
家は基礎工事の跡しか残っておらず、ほとんどが水没して泥々になっていた。
山の中腹まで木の色が変色し、それは津波の高さと幅の広さを語っていた。
毎日多数のボランティア登録者がテントに訪れるが、大多数が瓦礫撤去を選択するので写真洗浄は人手が足りていないとのことだったので、僕たちは優先的に写真洗浄をやらせてもらった。
テント内の机で薬剤や水やブラシを使って泥を落とし、乾かす。
それを探してやってくる被災者の方々。例えば津波にのまれて亡くしてしまった遺族の形見として、写真は形に残る大事な存在になる。
瓦礫撤去では、バケツに集め、集まったバケツを決まった場所に運んで瓦礫の山を作る。
壁のコンクリート、家具の破片、風呂釜のボディ、文房具、、
いろんな物を拾った。泥にまみれて原型を留めていないものもたくさんあった。
夜には仮設食堂で飯を食べ、現地で集合した先輩の友人とも合流し、話を交わした。
そして翌日また同じような作業をした。
この2日間は、どうにもこうにも他人事になってしまっていた東日本大震災、そして原子力発電と自分たちの暮らしについて、考えさせてくれる大きなきっかけとなったのであった。
その時は集合場所として立ち寄っただけだったので、
時間をかけて福島に滞在するのは、震災前も含めて人生初なのだ。

ライブが終わった後、共演者の皆様と深く話す時間があった。
『福島どーなの?』
これが率直に聞きたい内容だった。
そして、みんな親切に話してくれた。感謝。
【メモ】
いわき駅周辺における作業員組、避難組と先住民との軋轢はいまだに残っている。
一部の子供に既に甲状腺がんが発症が認められている。報道に乗らない事実。
立入禁止が解除された海水浴場は以前は汚染されていた。