2013年5月31日金曜日

HAKOBUNE 【エピソード3】 島が見えた。







バンドがOCTAVIOになって、曲ができて、2007年の末に、ライブハウスに2回出演した。

頑張って友達を呼んだりしたけれど、お客さんは10人も居なかった。












そのあと、今までずっと一緒にやってきたフクシマくんが、バンドから抜けることになった。
















理想と現実と狭間で、バンドという集合体や表現そのものについて悩み続け、考えた末の決断だった。






















『自分が抜けた方がバンドが良くなる。』






















最後にそういって、フクシマくんはOCTAVIOを去った。










残った4人のOCTAVIOという舟は、船長を失って、それでもまだ海を渡っていくことにした。




4人で夜な夜な写真スタジオに集まって、朝まで先の見えない、けれど限り無く自由なセッションを繰り返した。
















2008年、春。


モリモトくんづてて、十三テハンノというライブバーのマスターから出演の話が来た。






とても愛のあるマスターだった。















テハンノには普段は弾き語りの人が多く、バンド出演は稀。
僕たち4人が立って演奏するにはとてもじゃないけど狭すぎるステージ。












僕たちは楽器も定まっていなかったから、とにかくその会場でできる最良の形を考えた。










曲を多く作っていたモリモトくんはギターボーカル。

ギタリストのコジマくんはアコギを持った。
ドラムを叩くスペースの無かったタロウは、フクシマくんから借りていたジャンベを。


そして僕はいつか使うだろうと思って購入していた鉄琴と、シェイカーを持った。













2008年5月、十三テハンノ。

とても小さなバーのステージにマイクを立て、ぎゅうぎゅうになって4人でライブをやった。




















ライブでの4人の生音編成が誕生した。





















舟は、リーダーが居ないまま、それでもまた4人で前に進みだした。
















ライブハウス、クラブ、カフェ、ギャラリー、公園、舞台の演劇、いちご農園、学園祭、野外フェスティバル。。。








かつてソニックユースとボアダムスと観にいった難波Hatchという大きな会場を経験した2010年。

渚音楽祭や、One Music Campという関西の野外フェスにも出演した2011年。

CDを出し、夏のリリースイベントで大盛況を作り上げた2012年。








そのうち遠方からも声が掛かるようになり、


京都、奈良、滋賀、兵庫、東京、徳島、福岡。。。





4人の舟で、僕たちはいろんなところへ行って、新しい経験をいっぱいした。












けれどもその舟は、決して頑丈なものではなかった。














ライブでの曲と曲の間、演出の細かいところまで僕が綿密にこだわりたかった時期があった。



僕「もうちょっとこう、ここは無言でゆっくりとした動きで移動して、楽器を交換して、厳かな空気を出しつつ 、、このタイミングで次の曲に行ってほしいねん。いける?」



モリモトくん「あーもうめんどくさいな!そんなんイチイチ決めてやっても全然楽しくないねん!おもんない!帰る!」


モリモトくんが帰ってしまい、急遽スタジオ練習が打ち切りになった夜もあった。






結局その次のライブは、演奏する曲自体も、曲間の繋ぎ方も全く示し合わせせずにセッションで始め、最後まで完全に感覚だけでライブを構成した。









僕がバンドの魅せ方、できあがった曲の曲調や、ライブでのカバー曲の有り無しなどに細かくこだわって意見していた時期、






「そんなに自分のやりたいようにしたいんやったら、(OCTAVIOを辞めて)別でやってくれへん?」


そんなやり取りもあった。













ライブの時に着る服装で、僕がモリモトくんに文句を言って、持って来た衣装を渡したこともあった。



僕「それ、ライブで着る衣装としてはダサいわ。今日はこれ着てくれへん?」

モリモトくん「今日はこれがライブ衣装に良いと思って着てきたんや!うるさいな!」



ライブ前の楽屋で口論になり、衣装を投げつけたこともあった。












「正直、もう気持ち入らへんようになってきてるから、しばらくライブ前の練習だけ参加するわ。サポートメンバー的なポジションやと思っておいてくれへん?」


そう言って太郎がほとんどスタジオに来なくなったこともあった。










僕がTAIYO33OSAKAという祭り創りの活動を初め、祭前の忙しい時期に手一杯になり、スタジオを急遽休んだり、レコーディングにも参加しないことが増えた時期もあった。











そんな風にして、舟は常にギリギリのバランスでもって、それでもなんとか前に進もうとしていた。

















やがて、目の前に一つの島が見えた。



(続く)





HAKOBUNE 【エピソード2】 船出。



うちまた少年はそのうち、裏打ちを目立たせた4つ打ちのダンスビートや、図太いギターリフとかを取り入れるようになり、フクシマくんの提案で「THE BENDS」という名前に変えることになった。
名前は、Radioheadの2ndアルバムから拝借した。

そして、フクシマくんの高校の同期であるモリモトくんがエレキギターで加入した。






NUMBER GIRLからのZAZEN BOYS、ゆらゆら帝国、SONIC YOUTH、The Strokes、Franz Ferdinand、THE RAPTURE、Mando Diao、、、







いつもフクシマくんがきっかけをくれて、教えてくれた。


そこから自分でも掘り下げて、数珠繋ぎのように世界の音楽を吸収していくようになった。













THE BENDSは立派なロックバンドだった。僕もエレキギターを弾いていた。

 島田君に代わるドラマーとして、タロウも入って来た。

タロウもまたフクシマくんの高校の同期だった。



フクシマくんがある日、「ZUN-ZOKU」という曲を創ってきた。

今までやって来たフォークやロック、パンクを基調にした曲から離れた、アフリカの民族音楽のような雰囲気を持った曲だった。



僕はその曲が好きだったし、今後そういう方向に進んでいくことは良いじゃないかと思っていた。






しかし、その曲調には興味が涌かないというメンバーも居た。








方向性が割れてしまった。







そして、スタジオの空気も停滞気味になった。




フクシマくんは悩んでいた。













そんな風にして、今後どういう曲をやって行きたいかでなかなかバンドがまとまらなくなっていた時期のある日、

フクシマくんからの提案で、曲を一新して、バンドの名前も変えてしまって、同じメンバーでまた一から始めようという話になった。




そのころ、サポートメンバーとしてギターのコジマ君が入って来た。コジマ君は高校時代にフクシマくんがやっていた別の活動で出合った友達だった。


みんなで曲作りと録音を兼ねていつも集まっていたフクシマくんの家で、新しいバンド名の案を出し合った。
フクシマくんが考えてきた「OCTAVIO」に決まった。





アモーレス・ペロスという、闘犬を題材にしたメキシコ映画でガエル・ガルシア・ベルナルという俳優が演じた主人公「オクタビオ」が男らしくて、とってもかっこよかったからだ。



2007年、僕たちはまた新しいバンドとして、転がり始めた。それがOCTAVIOだった。




OCTAVIOは初め、フクシマくんがボーカル、僕がベース、モリモトくんがエレキギター、コジマ君がエレキギター、タロウがドラムという5人編成で始まった。

そのころはまた共通してRadioheadを良く聴いていて、初期のOCTAVIOは音楽的にもすごく影響を受けていたと思う。特にOK Computer、KID A、AmnesiacあたりのRadioheadの影響が濃かったと思う。



Sigur Ros、mum、Bjork、Mogwai、Tortoise、KYTE、MONO、、、



音響派だとか、ポストロックだとか呼ばれている音楽を知った。



また新しい世界が見えた。






そして、ボアダムスとの出会いは衝撃的だった。



2007年4月17日@難波Hatch

フクシマくんと観に行ったソニックユースの日本公演の共演が、ボアダムスだった。



円形に組んだ3台のドラムの真ん中にシンセとDJセットのような機材が一台。




エレキギターを組み合わせて作った奇妙なオブジェもある。しかも叩くと破壊音が鳴る。。





ライブは、衝撃という言葉では足りないくらい、革命的なパフォーマンスだった。


民族的で未来的、宇宙に連れていかれるかと思ったらその宇宙は実は自分の脳みその中にあって、外に向かっているようで実は内へ内へと潜っていっているようで、、、




腹の底をえぐられるようにして踊った。人間本来の、歓喜の姿。



それは、



とにかく最高だった。











ボーカル、ギター、ドラム、ベース、キーボード、、、



そういった編成ばかりが『バンド』ではない。










以降、頭の中で、どんどん新しい『バンド』の形を模索していくようになった。










初めはずっとフクシマくんの家で5人で集まって、曲を作ったりみんなで買った録音機材でデモCD-Rの録音をしていた。

交換ノートを作って、毎週メンバー間で回した。今作っている曲のイメージやイラストを書いたり、単なる日記だったり、最近聴いている音楽を紹介したり、、


OCTAVIOはそんな風にして、少しづつコミュニケーションを取り、バンドの形になっていった。







そのうち、モリモトくんのつてで東大阪の荒本という駅の近く、トラックターミナルや工場ばかりがある町の立派な写真スタジオを借りられるようになった。

写真の仕事で使っていない時間は好きにスタジオを使っていい、ということになった。






僕たちはその写真スタジオにそれぞれの楽器と録音機材を持ち込んだ。















自分たちの基地が出来た。


















近くに住宅が無い地域だから、夜中でも好きなだけ大きな音が出せる。

お金もかからずに、長時間使える。






僕たちにとって、それは最高に自由な創作の環境だった。


毎週5人で集まって朝まで曲を作ったり、セッションをしたり、録音を続けた。








そして、出来上がったデモCD-Rを持って、大阪市内のライブハウスを回った。






やがて、いくつかのライブハウスから出演の話が来て、出演が決まった。












OCTAVIOというバンドは、まるで一葉の舟だったように思う。

そしてバンドメンバーはその舟に乗り合って、先の見えない大航海を一緒に続けた仲間だ。






僕たちは楽器を持って、大海原に舟を出した。そして、旅が始まった。


(続く)


2013年5月30日木曜日

HAKOBUNE 【エピソード1】 知らない世界へ。

今のメンバーになって5年間続いたバンドが、明日のライブを最後に無期限の活動休止になる。


バンド、OCTAVIOについて。

少しずつ、振り返る。





大学生のころ、僕は小中学校時代の同級生のフクシマくんに誘われて、「うちまた少年」というバンドを始めた。

2004年、僕たちはまだ18歳だった。






フクシマくんとはいつかバンドをやりたいと思っていた。 高校生のころ、バンドを始めるきっかけをくれた友達だったから、嬉しかった。


初期メンバーは4人。フクシマくんと、僕と、フクシマくんの高校の同級生のヨシタカ(ベース)、同じくしんちゃん(ドラム)。

その時のメンバーは、共通してGOING STEADY・銀杏BOYZが大好きで、最初はコピーもしていたけど、そのうちフクシマくんが曲を作るようになった。


フクシマくんが鼻歌で歌うメロディーに僕がギターでコードを付ける。

僕の家で、そんな手順で曲作りが始まった。
時にカセットテープに吹き込まれていたり、二人でギターを抱えて夜中まで部屋にこもったりして、


そのうち「夕暮れ」という曲ができた。


とても良い、ラブソングだった。




フクシマくんはうちに来ると、いつも知らない音楽を僕に教えてくれた。





THE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWS、ザ•スターリン、、、、、









そこから数珠繋ぎの様に、あぶらだこ、INU、村八分、ばちかぶり、、 なども知った。








全てが新鮮で、全てが新しい世界への入り口だった。







(外国の音楽なんて歌詞の意味がわからないから、面白くない)






そんな理由で遠ざけていた僕にWEEZERやOasis、Green Dayを教えてくれたのもフクシマくんだった。









少しずつ音楽に対して壁が無くなり、広がっていった。






初期ドラマーのしんちゃんから島田君に代わり、
南港の野外イベントや、堺のライブハウスでステージに立って、何度かライブをした。



踊ったり駆けずりまわったり、のたうち回ったり、ベースのヨシタカにドロップキックをしたりしながら、エレキギターを力いっぱいかき鳴らし、声が枯れるまでコーラスで叫びまくった。


解放感に満ち溢れていた。














こんなにも気持ち良い世界があるのか。















こんなにも自分の中にあるどうしようもない熱のようなものを、吐き出せる手段があるのか!!!























僕はバンドが大好きになった。




(続く)

2013年5月28日火曜日

中国地方ツアーの6日目@鳥取。 =浪速のデイビッド。=

5月19日(日)。



中国地方ツアーの最終日。



前日「夜のバケーション」主催のリョウ氏の家で全員でお世話になり、目を覚ます。


リョウ氏おすすめの最寄のお好み焼き屋へイン。






当然んまい。






と、





ふと






隣に座っていた




清水アツシにいやんがおもむろに言い放った。







『みんなよう座ったまま食べれるなあ。

俺、胴が短いねん。お好み焼き届かへん。。』





















外は雨。










清水アツシ・ジェイムス号にて高速で鳥取へ。




つくやいなや、









サンデーカミデ氏。





今夜も清水アツシ&つじちゃん。



ライブは会場満員の大盛況。





鳥取のプリンス


そうちゃん



いつもながらの豪華な打ち上げ、アジパイさん、ミチモリさん始めいつもありがとうさまです。




神戸のデイビッドによる鉄壁のドライビンで大阪に帰り、



広島・鳥取の2デイズが終わり、



中国地方ツアー全5日程全て終了





本当に各地でさまざまな人にお世話になった。感謝。感謝。感謝。



中国地方ツアー、次はいついけるだろう。
またみんなに会いたい。








さんきゅう。




2013年5月26日日曜日

中国地方ツアーの5日目@広島。 =大津島からダムダムでポクポク。=

5月18日(土)。


ツアー5日目。朝早くに目が覚めた。




福岡のオーガナイザーこうたろう氏の薦めの元、朝6時から空いている徳山駅の食堂へ。





朝定食のクオリティ高い。


そしておっちゃん達のクオリティも高い。生中がぶがぶ。



そういう意味で確かにヤバい。



賑わってイル。

フェリーに乗って、徳山駅からすぐの大津島へ。




港を降りたところで、さっそく、、、











師匠発見!!!!


合掌。。。





ほとんど調べずに行ったので島に着いてから知ったけど、大津島は太平洋戦争末期に人間魚雷の基地があった島であった。





たくさんの若者が国を守る名目の下、特攻した。


自分の手で触れないとわからない歴史。 出口のない海。

島はうつくしい。

人はあたたかい。









昼過ぎに徳山駅に戻り、国道二号線まで歩く。



山口からヒッチハイクで来ました 



とライブのMCで行ってみたったがゆえ、挑戦。


 【広島】




と大きく書いた紙を掲げてひたすら待つ。




開始10分。遠くの方で一台の車が止まった。




(※画像はイメージです。)









中から初老の男性が出て来た。




こちらを見ている。紙に書いている【広島】

 の文字が見えないようで、

(もっと見えるようにこちらを向けてくれ!)というジェスチャーをしている。







(お、早くも乗せてくれる人が見つかったか!)









思い、



『広島でーす!』




と叫ぶ。




すると、





(OK!わかった!OK!!!)




というジェスチャー。









(これは思ったより早く見つかった、ありがたい!)








思いきや、、、










そそくさと車に戻り、、






ブーーーーーーン!!!!!。。








車に戻り、そそくさと向こうへ行ってしまった。。





その車は二度と戻って来なかった。。






ちーーーーーーーん。








国道二号線作戦あえなく失敗にて、ギリギリでバスにライドン。 広島に向かう。



この日はダムレコーズというレコ屋で『夜のバケーション』という

ワンダフルボーイズにも良く遊びに来てくださるリョウ氏の名物イベントだ。




広島駅から歩いて15分ほどでダムレコーズに到着。



マスターに挨拶するやいなや、ブルーハーツの梶さんから今日僕のライブがあることをマスターに知らせる連絡があったことを伝えられる。うれしい。



マスターは早朝ピストンズというパンクバンドのドラマーの方だった。
お店もラモーンズ周辺の初期パンクを中心としたこだわりの強い店で、楽しかった。






ダムレコーズのダムダムカレー。







当然んまい。





これはそんなにんまくない。







清水アツシにいやんのクラリネットのつじちゃん。

ナイスコンビにてグッド!!




最後は4人で『JOY TO THE WORLD』と『おっさんのブルース』にて大盛況にて終演。






ライブ後はダムレコーズで打ち上げをし、


スパロックスヒロシマというパーティを続けているDJ MIMU氏のプレイで踊るべく、スリムチャンススタジオへ。






夜中まで踊り続け、





ツアーメンバー全員でリョウ氏の自宅にてお世話になるのであった。



お仏壇のすみの×サンデーカミデ×清水アツシ×つじちゃん×エプソン

この5人で回る2デイズ。



次はついに中国地方ツアー最終日の鳥取。


ごーーーーーーん

2013年5月25日土曜日

中国地方ツアーの4日目@山口。 =2000年代後半、ニーハイからカラータイツブームへの変遷。=

5月17日(金)。


島根のマツ氏の家で目を覚まし、美郷町の山の中で美しい朝を迎えた。


今朝マツさん奥さんが作って持たせてもらった、味噌おにぎりが温かく、美味しくて、泣きそうになった。




今日は山口県徳山のライブハウスriseに出演。



美郷町の山を降りて大津市駅からバスでいったん広島へ。  

広島から山陽本線に乗り込む。


昨日は日本海の荒々しい格好良さに触れていたけど、瀬戸内海の優しく穏やかな感じもとても好きだ。車窓から眺めた空は何色だっただろう。





2時間ほどで徳山駅に到着した。




少し時間があったので公園のベンチへ。
 



ホネホネさんの麓で昼寝して体力回復。






夕方前、会場へ向かう。




途中のラーメン屋の前にて、看板を発見。





メニューの看板も出ていなかった。


いいからとにかく食え、ってことかな。






会場に到着。









イベント内容は読者の想像に任せる。









リハ終わりまして、駅前ミックス。

周南riseも鳴りが良い。

メインSPとウーハーはよく見るJBLのセットなんだけれども、PAさんの腕が良いのだそうで、良いチューニングなんだと思う。

中で50hzあたりをカットして100hzを上げるとさらに低音がすっきり。

すっきりあんどドッシリ。へその下で鳴ってくれ





そしてライブ本番。
40分をうまく使えたと思う。連日のライブで曲間の繋げ方やエフェクトが上達してきた。




そして僕のあとは。

今回のイベントの主謀者、M里くんによるトークライブ













次はぜひクリトリック・リス先輩を連れて来たいと思った。

劇的にヤバイイベントだった
詳細はあえて伏せます







ライブ後は福岡のオーガナイザーこうたろう氏に薦めてもらっていたクラブpeopleへ。


1★狂のBUNBUNさんやALTSさんなど、いろんな大阪アーティストが関わっていた。
またイベントの日にでも来れたらいいな。



そして真夜中ひとり打ち上げ。


今日は駅前の屋台で

ラメーンとおでん。





ごーーーーーーーーーーん

2013年5月24日金曜日

中国地方ツアーの3日目@島根。 =出雲大社~島根で太陽大感謝祭。=

5月16日(木)。







ケンタ氏の店『誉』の2階で目を覚まし、同じく薦めていただいたすぐ近くの喫茶店『カプリ』へ。



最初カプリチョーザのことかと思っていたけど、違った。








当然んまい。









ゆでたまごのゆで加減に優しさを感じる。




帰って来てしばらく店で待っているとケンタ氏再来。






ケンタ氏とは

レペゼン島根。
2007年から今までに犬式、Dachambo、鎮座DOPENESS、Shing02、イルリメ、奇妙礼太郎、ワンダフルボーイズなどなど数々のアーチスト
を島根に招待し、大盛況のパーリィを続けている個人オーガナイザーなのである。



YEAH













ななななんと、予定していた出雲大社『平成の大遷宮』に行くにあたって、車を貸していただけることに。





合掌。。




宍道湖を眺めつつ、湖畔を走り1時間ほどで出雲大社に到着。





参拝。






合掌。







ごーーーーーーん






周辺は多数の参拝客で賑わっていた。







そのままケンタ氏に薦めていただいた、裏手の港町



さぎうら
鷺浦 へ。



今年の夏、柴田剛監督作品で、この街とケンタ氏の店が舞台になった映画が公開されるらしい。





出雲大社の裏山を越え、たどり着いたはまさに港町。漁港があって、山にサイレンが鳴り響いた。









あれは、いったい、何のためのサイレンだったのだろう?




そこからさらに日本海側を東に回って行くと、黄泉の国に繋がるとされていた


いのめ どうくつ
猪目洞窟




というのがある。










畏敬の念、圧巻の大自然が作り上げた風景だった。





洞窟の中は当然真っ暗なのだけれども、どうにも好奇心が抑えられず、中へ。






この洞窟は、いったい、どこまで続いているのだろう?








真っ暗の中、持っていたライブ用のペンライトを照らし、背中が天井とすれすれの状態で歩き進む。









しばらく進んでいるとだんだん空気が薄くなって、道も狭くなってきた。












ところで、行き止まり。








そうか。どこかに繋がっているわけではなかったのだ。








振り返り、外へ。









かすかに向こうに外の光が差し込んでいる。








なんとか車に戻り、そのまま松江に帰って来た。




車をケンタ氏に返却し、電車でさらに西へ。大田市というところに向かった。




大田市駅に着くとマツさんが待ってくれていた。



初対面。





島根太陽大感謝祭の発案者、主催者である。


マツさんは元々、ブルーハーツの梶さんと関東で
『サルサガムテープ』というバンドで活動され、今は島根で弾き語り活動をされているミュージシャン。Facebookやyoutubeなどで太陽大感謝祭を知り、自分の街でやりたい!と思ってくださったのだ。










僕がその発言をツイッターで発見し、33メンバーに報告したところ、大絶賛で賛成だった。



感覚的に33の根本にあるメッセージの一つが伝わったのだと感じて、嬉しかった。




自分の未来を、自分で作る。





だからそう、『島根で太陽大感謝祭やってください』とか『来て下さい』では無く



『自分が祭りやりたい!』



であるのがジャストミートだったのだ。









同じく島根幹部のサワさんともお会いして、
大田市から一時間弱、美郷町という山の街へ。


そして3人で晩酌。大変手厚くもてなしていただいた。33の話も、1年半の道のり、太陽大感謝祭のこともできる限り伝えた。


そしてそのまま


マツさん宅に泊めていただいた。
















話してみて思ったけれど、この祭はきっとうまく行くよ。











きっとね。

2013年5月23日木曜日

東京お仏壇巡り。=浅草~池袋へ=

4月25日(木)。

さかのぼって書くけど。





自販機で買う飲み物、水だけで良くない?

水は安いし、おそらく余計な添加物が一番少ない。おそらく一番体に害がない。おそらく。
味気は無いけど、それで充分。ジュースを飲むくらいなら、別にお金がもったいないとは思わないな。

と、今日はそんなことを考えていた。


少し遅めの朝食。






昼から浅草へ。


向かう道中。。




 ももたろさーーーーーん!!!!





と、 浅草の中心部へ向かって歩いている間。。






仏壇。






仏壇。




仏壇まつり。






仏壇。





すしや通り!!!!




なんとジャストミートな街だろうか。大好きだ。



 雷門をくぐって、浅草寺へ。





 合掌。。。



 



おばさまたちにまぎれて









煙を身にまとう。ありがたや。








買い物もしたかった。遠征用の大きめのリュックを新調したかったけれども、良い塩梅の物が見つからず、
うむむとなっているところに











師匠発見!!!!



浅草には師匠がいっぱいいるのだ。師匠だらけ。師匠まみれ。






そしてさらに露店を回っていると、、、










ええのん発見!!!





三度笠。美しい。




浅草はいつ行ってもお祭り感満載。

さっそく購入して夜のライブでかぶることにした。


オルグに到着してミヤジくんと再会。

PAの阿久津さんは初めてだったけど非常に柔らかくやり取りしやすい信頼感のある方だった。

ライブはハードなトラックは控えて、溶け込むような構成にした。
最後にやったKAEROUが、会場の雰囲気にはベストマッチだったかなと思う。




僕の次に演奏されたApartment氏。USインディーポップ感から広がりまくりぐいぐい来る弾き語り10年選手。





音源買いそびれたけれとも欲しかった。最後の2曲、ドラマーにトクマルシューゴバンドなどなど多数のサポートをされている岸田さんがいて驚いた。



次はミヤオヨウソロバンド。



優しく澄んだ声で包み込まれた。
みなとまちというバンドからサポートの男性コーラスとの絡みが最高だった。

既存の音楽に例えて良いものか、だが、ハンバートハンバート的な良さ。
ギターサポートがMOROHAのゆーきくんだった。一方的に知っていたが聞きしに勝る素晴らしいギタリストだった。
MOROHAもぜひ見てみたい。




そしてトリの福岡のライスボウル。


またもドラムは岸田さん。
ライブ中、ボーカルの人の目がひたすらキラキラしていた。少し潤んでいたようにも思う。




そんなこんなでお仏壇、ラブソファ@新宿ロフトぶりの二度目の東京が終了。

打ち上げではミヤオヨウちゃんやゆーきくんと、実のある話ができたように思う。

それぞれがそれぞれの立場を大事にしながら、相手の立場を理解できれば、最高だ。
その思いが無いと、人と人とは交われない。


精神世界が次のステップを求めている。

ありがとう。









ごおおおおおおん